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町田 ジャガーに関する中古車

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町田 ジャガーに関する旅行記

横浜線の歴史的痕跡を探す ~東神奈川-八王子間編 明治領歌【...

横浜線は一昨年開業100周年を迎えました。


明治期から昭和前半まで我が国最大の輸出物と言えば「生糸」です。
当時、生糸は東北北海道沖縄方面を除き日本本土各地で生産されておりましたが、国内外でも高評価で1級品認定されていたのは長野県産品と群馬県産品だった。

件の物は製品化された上で外貨獲得の重要物資として横浜港から主に北米へと輸出される。
群馬県産品は群馬から横浜までの輸送ルートが、日本鐵道(高崎→品川間)・逓信省鐵道作業局(品川→横濱間)と単純で運賃も廉価で済んだのに対し、長野県産品は、逓信省鐵道作業局(長野県内各駅→八王子間)・甲武鐡道(八王子→新宿間)・日本鐡道(新宿→品川間)・逓信省鐵道作業局(品川→横濱間)と数社に跨る事から運賃が嵩み群馬県産品との競走上、不利にならざるを得ず、明治30年代後半ともなるとその差が歴然として深刻な状況が招来した。

此の為に八王子から横濱に向け鉄道建設を願う声は日に日に高まったもが、明治政府は横濱線が政府主要建設予定路線だったにも拘らず、日露戦争の結果、戦費収納を優先とし財政的余裕が無く、故に、民間出資に拠り横浜-八王子間の鉄道会社を設立する方向に固り、紆余曲折の後、明治35年(1902年)8月23日に茲に正式に『横濱鐵道株式會社』が設立され本社は横濱市青木橋に設置され、直ちに鉄道運営に必要な機関車、軌条、機材類を米フレザー商会横浜支店を仲介して発注した。

当時は現在の如く簡単に入手すべき可能な時代などでは無く、船便での発注手配であり、軌条に至っては、明治39年(1906年)製造になる。

明治41年(1908年)9月23日に東神奈川-八王子駅間全線が開業した。
然し、横濱鐵道は開業の時点で企業設立時の目論見とは大きく異なる事態が生じていた。

即ち、政府は日露戦争後に於ける全国に存在する私鉄の国有化を目差し、明治39年(1906年)3月31日に『鐵道国有法』(法律第17号號)を制定し該法律に基づき、甲武鐵道が同年10月1日、日本鐵道が同年11月1日に政府に拠り買収された為に、バラバラだった運賃計算が一貫通し計算が可能となり利用者からは歓迎を受けたが、反面、横濱港への短路とは言え高額な運賃を支払う横濱鐵道利用のメリットが無くなった事で当初の目論んだ数値より遙かに低い輸送量しか得られなかったからである。

当時は横濱鐵道が将来の政府建設予定線である事を理由に早くも明治43年(1910年)4月には政府が借上げて運営される事となり運賃が鐵道院路線と同額となり通し計算が可能になった事から利用者にとってメリットは大きいものだったと推定される。

横濱鐵道開業の頃より国内知識層間に軌間拡大論が展開される。

即ち、明治政府は鉄道建設開始にあたり英国人設計担当者より日本人担当者に対し軌間採用設定に就いて質問した処、件の日本人担当者は業務知識絶無な上に内容に就いて理解も吟味をもし得ず単純に狭軌を採用する旨、回答した為に、爾来、我が国で軌間と言えば狭軌を採用した事で此れが今日でも主流となる。

然るに、輸送上に関し狭軌(1067㎜) 対 標準軌(1435㎜)はワイドな標準軌採用の方が何かと有利たる事は自明の理であり、明治期後期ともなると国力に余裕が生じると輸送量不足と拡大化とを求める声が国内に台頭する。
政府としても広軌化論を無視放置する訳にもならず、取り敢えず借上げ運営中の横濱鐵道原町田(現 町田)-橋本駅間施設を改築して走行試験を試行する事となり、大正6年(1917年)5月23日に件の区間を3線化、若しくは、4線化工事完了を以って実験を開始する。
広軌化改造工事に拠る結果は、蒸気機関車の広火室化の容易、燃費向上、速度抵抗軽減等々、狭軌より標準軌の方が約32パーセント増の効果が確認され、広軌化に拠る経済効果は大なりと判定されたにも拘らず、政変の為に西園寺内閣は総辞職を余儀なくされ改軌案賛成の民政党から対立する政友会が政権を獲得した為に大蔵省に依る予算計上まで完了していたにも拘らず広軌化計画は頓挫する。

政友会の主張は「広軌化改造に要する諸費用を以って地方諸路線新設を優先すべし、云々」との意見を開陳し反対したが、即ち、政友会の主張に沿って建設された地方路線は此の時期から昭和初期にかけて全国に及び、件の路線の殆どが当初から人口希薄地域を通す赤字路線であり、戦後になり此れら路線を継承した日本国有鉄道の財政を逼迫させ破綻させた大赤字の萌芽たる地方赤字ローカル線問題は此れら路線建設の結果を招来させた。
即ち、政友会の主張と裏腹に実際には国益の為の路線建設などでは無く、現実は政友会代議士の露骨な利権追求の為の票田建設と言ふ方が正しく、昭和初期に政友会大物衆議院議員で長野県選出の小川平吉(おがわ へいきち)(明治3年(1870年)1月2日~昭和17年(1942年)2月5日)は田中義一(たなか ぎいち)内閣の鐵道大臣在任中に私鉄路線建設申請に関する免許状乱発交付で露骨な贈賄行為を反復させた事で世に言ふ『私鉄疑獄事件』を起し、小川は鐵道大臣経験者と言ふ親任官職にも拘らず司法検察当局に逮捕拘留され裁判に付され大審院(現在の最高裁判所)で有罪が確定し実刑に処され位階剥奪されるが如く、此の手の政友会代議士は国益より利権に走狗する行為が露骨で『我田引鉄』を得意とした。

政友会の後塵直系組織たる現在与党たる○○党が、度々の利権報道と司直強制捜査で先般も贈賄容疑で元公設秘書が逮捕拘留されるが如きは、此の悪しき伝統が根をおろしているものと考えるを得ず、大所高所から国民の目線をして誠に遺憾な行為といわざるを得ない。

結局、標準軌採用は見送られ、本格的採用は昭和39年(1964年)10月1日に東海道新幹線開業まで留保される。

標準軌改築工事が実施された同年10月に政府は横濱鐡道全線を正式に買収させ政府資産とする事に決定し、茲に横濱鐡道は正式解散し、官有たる『鐵道院横濱線』として新たなる出発をします。

国立公文書館に保存されている当時の公文書本文に政府の本心が垣間見れる。

因みに文中の「新宿線」とは現在の山手線です。


横濱鐵道借受ノ件

別紙内閣総理大事請議横濱鐵道借受ノ件ヲ審査スルニ右ノ相当ノ儀ト思考ス依テ請議ノ通閣議決セラレ可然ト認ム


指令書

横濱鐵道借受ノ件請議ノ通   明治四十三年二月三日(印)

運第壱百弐拾壱号

横濱鐵道借受ノ件

横濱鐵道ハ官設鐵道東海道線ト中央東線トノ間ニ位シ新宿経由ノ官設線路ニ対シテハ競争ノ捷路タルヲ以テ之ヲ政府ニ借受ケ東海道ト中央東線トノ連鎖トシテ管理スルコトハ独リ新宿線ノ輸送上ニ於ケル負担ヲ軽減スルノミナラス東海中央ニ線ノ運輸ヲ圓満ナラシムルモノニシテ頗ル得策ナリト認ム且同會社カ既ニ許可ヲ得タル横濱港内ノ延長線及出願中ノ海面埋立ト本院ノ計画ニ係ル横濱港ノ海運連絡ト相待テ其ノ効用ヲ完フスヘキモノナルニ依リ
其等ノ権利ヲ継承シテ工事ヲ遂行スルノ必要アリト信テ大略左ノ条條件ヲ以テ横濱鐵道會社ト契約ヲ締結セントス

一)該鐵道ノ運輸営業ニ要スル各種建造物車輛及附属品ヲ伴セテ借受クルコト
二)天災事変ニ起因シ損害ヲ来シタル場合ノ各種建造物及車輛等ノ修理保存ハ一切政府ノ負担トスルコト
三)借用料ハ該鐵道ノ営業成績ト該鐵道ヲ政府ニテ管理スル為メ官設鐵道ノ受クヘキ利益トヲ参酌シ其金額ヲ定ムルコト
四)該鐵道ノ借受期限ハ壱ケ年トシ政府ノ都合ニ依リ同一ノ條件ヲ以テ通計弐拾箇年ニ達スル迄壱ケ年毎ニ契約ヲ更新スルヲ得ルコト
但シ借用料ハ契約更新ノ都度之ヲ協定スルコト
五)臨港延長線及横濱港北防波堤ニ沿ヒ港内ニ面スル埋立工事ハ政府ノ費用ヲ以テ施行スルコト
六)前號ニ依テ政府ノ投シタル費用ハ鐵道返還ノ場合ニ於テ現実ニ存スル増加価格ヲ會社ハ政府ニ弁償スルコト但シ海面埋立ハ返還セサルコト

右閣議ヲ請フ

明治四十三年一月十八日

内閣総理大臣 侯爵 桂 太 郎


横濱鐵道株式會社社長 朝田又七殿

内閣総理大臣 侯爵 桂 太 郎 殿


当時の山手線は現在の様に複々線で客貨が分離されてる構造にはなっておらず複線で電車を頻発運転させながら貨物列車を割込運転させる等、綱渡り的運転を強いられ、既に運転上で列車遅延は常態化し飽和状態だった。
また、政府としても横浜北港埋立構築は日露戦争後に於ける対外国策上必要不可欠要件であり、横濱鐵道借受は政府にとって正に一石二鳥効果を得る事が可能だった事が垣間見える。

即ち、借与中に於ける民有所有物たる動産不動産諸施設に対する改造変更は、現財物に対する変更行為と言ふ、法的矛盾を生じせしめ、当時の内閣法制局の指摘を根拠に買収を決定させた。

後年、昭和初期に鐵道省東京-大阪間3等運賃と富士身延鐵道富士-甲府間3等運賃がほぼ同額とされ『富士身延鐵道』を政府於いて筆頭高額運賃軽減をはかる目的で借上運営中の諸設備向上を理由に鐵道省が改良工事に着手せんとして前述の指摘を受け工事中止をせざるを得ない状況が現出し、此れ以降、政府や鐵道省は民間鉄道会社を民設公営の厄介で中途半端な借上経営を止め買収実行の形態へと変化する。
例外的に借上げ形態を採用したのは京成電気鐵道上野公園(現 京成上野)-日暮里間で、大東亜戦争中に鐵道省本省の疎開先として選定され、強制借上げ後は狭軌に改軌し運用が中止され休車中の1、2等寝台車や1等展望車を搬入して防空壕代りに使用された。

殊に、昭和12年(1937年)7月2日に日華事変が勃発以降は、戦時軍事輸送体系円滑化の強化を目的として戦時買収が活発化する。
或る日、政府から会社に突然、代表者を鐵道省本省に招致出頭せしめる電報が送達され、本省に出頭した担当者は否応無く買収を受諾させられる事態が常態化する。
買収条件は一定期間売却禁止の戦時国債交付と被買収企業の解散禁止され、然も、戦後になり我が国を見舞った超インフレ経済に依り売却期限が到来した戦時国債の証券価値は紙屑同然になり、故に、各方面から買収資産価値変換と無償払下運動が勃興するが、大蔵省は解決済との頑な態度に終始し、被企業側は鐵道省や運輸通信省にタダ取りされたと言ふ根深い恨みを残す事になる。

東神奈川駅は鐵道院東海道本線と横濱鐵道乗換駅として鶴見-神奈川駅間に横濱鐵道が建設し完成と同時に鐵道院に無償貸与された。

よく横浜市民ですら東神奈川駅が存在するのに何故、(本)神奈川駅が存在せぬのかとの疑問を抱く様ですが、本来、神奈川駅は明治5年(1872年)7月10日に開業していた為に、「神奈川駅に対する東の駅」という意味合いで東神奈川駅と命名される。
然し、昭和3年(1928年)10月15日に横浜駅が現在地に移転し神奈川-横濱駅間が180メートル弱しか離れていない為に前日の10月14日限りで開業以来56年間の歴史に幕を閉じた為に東神奈川駅だけが残ると言う変則的事態になった次第。

鐵道省は東海道本線横濱-國府津駅間、横須賀線大船-横須賀駅間、及び、熱海線國府津-小田原駅間を1500ボルト直流電化する事に決定し、大正12年(1923年)に工事着手する。
然し、工事途中にして関東大震災に遭遇し電化工事は一時頓挫する事になったが、電化に関する要員教育研修を兼ね当時の横濱線に再び実験線としての栄誉を賜り、東神奈川-原町田駅間の電化工事を大正13年(1924年)6月15日に着手し同月26日に完成させると言ふ記録的突貫工事で完成させ直ちに試験運転を開始する。

東海道本線電化工事が完了し東京-小田原駅間等で試運転が本格的開始の前に横濱線電化諸施設は本来の用途目的を達成させた事から遊休化したが、横濱線沿線で地元有力者が此れら設備を見逃す筈も無く、再三にわたり鐵道省に対し件の区間の電化諸施設の活用策として横濱線列車を蒸気機関車から電気機関車牽引に変更要求が提議される。
然し、昭和初期に鐵道省は電気機関車の国産化を成功したとは申せ、当時の電気機関車1輌に於ける製造価格は大型蒸気機関車1輌と比較しても際立って高価な存在であり、概ね、EF52型電気機関車1輌の製造諸経費はC51型大型旅客用蒸気機関車2輌分に相当し、当時の震災復興中の鐵道省予算内での新造は困難な状態であり、且つ、当時の電気機関車保有数に余裕も無い事から鐵道省が横濱線に電気機関車を導入し電気運転するなど論外的見解と言ふべきであり、実際に不可能だったに相違無い。

然るに、大正末期頃から東京圏内に於いて1500ボルトに拠る電車運転が成功裡を修めると横濱線も電車運転の気運が盛上り、昭和7年(1932年)11月23日より概電化区間に於いて電車運転が開始される。
此の時に横濱線用として田町電車区より横須賀線を代表する半鋼製電動車モハ32型と池袋電車区より木造制御車クハ17型が東神奈川電車区に配転され2輌編成で運転される。
モハ32型には貫通幌が設置されていたのに対しクハ17型には幌が無くモハ32型の相手無き幌がフワフワと浮き上がりながら運転されました。
またクハ17型は老朽木造車故に走行中は車体がギシギシと唸り菱形に変形しながら走るものの、電化しても毎時1本の運転形態は変化なく継続する。

また残りの原町田-八王子駅間には昭和8年(1933年)10月1日からガソリン動車キハ41000型が導入され運用を開始される。

昭和12年(1937年)7月7日に勃発した日華事変の頃より横濱線を取巻く環境は隣接地域の小田原急行鐵道(現小田急電鉄)、相模鐵道と共に戦時体制に組込れてます。

即ち、当時の社会情勢は帝國陸軍に拠る施設拡充を行使したくとも人口密集地たる東京府内に於いて最早困難性を極める事態を招来し府内に存在する諸施設を東京近郊に移転させる必要性が生じ、殊に、陸軍士官学校が東京市谷台より相模原に移転した事も手伝い急に此の地に軍事施設が盛況を極めます。
特に、陸軍士官学校卒業式に臨席あらせられる昭和天皇御乗の御料車を含む6輌編成の御召列車が八王子経由で原宿-原町田駅間、若しくは、原宿-相模鐵道本線相武台下駅間に運転され、原町田、相武台下双方の駅に簡易ながら御召列車専用ホームと関係諸施設が構築された。
他方、横濱線沿線に軍事施設、軍需工場の進出に拠り旅行数が鰻登り的激増を見せ、東神奈川-原町田駅間では、従来の2輌編成の電車が毎時1本の牧歌的運転で事足りていたものが、朝夕は4輌編成15分間隔となり急に慌しくなる。

原町田-八王子駅間のガソリン動車の運転では各車輌に運転士を乗務させ先頭車運転士のブザー合図に拠り各車での単独運転させる為に最大3輌迄の編成しか組成出来ず、又、昭和15年(1940年)1月29日に大阪安治川口駅ガソリンカー脱線転覆火災事故で死者189名負傷者69名を出す大惨事が教訓となり、横濱線全線が単線である事も輸送上の障害を来たしていた為に、昭和16年(1941年)4月5日に残り原町田-八王子駅間も電化され横濱線全線で電車運転される。
また同日に陸軍省の要請に拠り駅間が長かった淵野辺-橋本駅間に相模原駅が開設される。
相模原駅開業に因み、同名駅が存在した小田原急行鐵道所属駅相模原駅は、鐵道省から開業を直前に重複を避ける為に『小田急相模原駅』に改称を命令される。

大東亜戦争中に於ける横濱線沿線最大の被害は、昭和20年(1945年)5月29日白昼堂々と実行された『横浜大空襲』に依るもので、横浜市内では東急電鉄湘南線黄金町駅、及び、神奈川区反町付近から東神奈川駅付近に至る地域の被害が他地域を圧倒し、東神奈川駅、及び、隣接する東神奈川電車区は米空軍B29重爆撃機から投下された1トン爆弾2発、及び、焼夷弾数十発が命中した為に、電車区では留置中の電車14輌全車と全施設が全焼全滅し、東神奈川駅では東急電鉄京濱線仲木戸駅付近で焼夷弾命中発火に拠り発生した火砕流が東神奈川駅構内に流れ込み、退避中の駅長以下駅員数名が此の火砕流に巻き込まれ、重軽傷者24名以外の7名は全員行方不明で遺体の一部すら発見されなかった事から此れら被災職員に対し戦時失踪者扱が認定され全員殉職扱いされる。
東神奈川駅は西口跨線橋、東部信号所、及び、ホーム擁壁部を除き此れ以外の全施設設備が被災全滅し、復旧に相当期日が見込まる事から、京濱線電車は駅復旧まで営業扱を中止され全列車が東神奈川駅を通過し運転される。
同年6月3日附を以って桜木町駅長飯田泰次郎氏が東神奈川駅長に赴任し混乱収拾をはかる。
横濱線は東神奈川駅構内が徹底的に破壊され電車発着が不可能となった事から現在の大口駅南側に相当する地点に古枕木を積重ねた臨時乗降場を設置し、横濱線電車は此処で八王子方面に折返し、利用客は新子安駅まで徒歩連絡で当座を凌ぐ。
横浜大空襲で当時大口に存在した日本大学専門部横浜校舎が全焼し、終戦直後に日吉と三島に移転転出した跡地が日本大学から無償提供を受け、此れを活用して昭和22年(1947年)12月20日に大口駅が開設される。

大口駅が戦争の申し子的感が無きにしも非ぬ存在だったにも拘らず、此れ以降、戦後の横浜線は既設駅間に雨後の筍の如く新規駅建設に明け暮れた感が強い。

横浜線は他線区に比較して複線化完成まで極めて遅動だった。
特に、小机以遠の工事が10年以上経過後に再開するが此れは複線化工事中の当時の日本国有鉄道の財政悪化が主原因である。
全線完成に至っては民営化後にずれ込む。

菊名-新横浜間 昭和42年(1967年)10月22日
新横浜-小机間 昭和43年(1968年)2月4日
大口-菊名間 3月12日
東神奈川-大口間 3月19日
小机-中山間 昭和53年(1978年)10月2日
中山-長津田間 昭和54年(1979年)4月1日
長津田-原町田(現 町田)間 7月15日
淵野辺-相原間 9月14日
町田-淵野辺間 昭和55年(1980年)9月27日
相原-八王子間 昭和63年(1988年)3月6日


現在の横浜線は純然たる通勤通学路線です。

然し、驚く勿れ、探せば歴史的遺産はアチラこちらに残存します。

現在、起点の東神奈川駅第2番ホームには横濱鐵道開業当時の側壁の関東煉瓦八王子工場製煉瓦積や上屋支柱に使用されている古レールは横濱鐵道開業当時の発注品の成れの果てです。


表紙の写真は東神奈川駅第2ホーム上屋支柱に残る横濱鐵道創業時に米国カーネギー社から輸入使用された古軌条群と横浜線用205系電車

2010/09/05 09:09:25

町田天満宮がらくた骨董市へ Let's Go!...

毎月1日に行われる町田天満宮がらくた骨董市には、約130店が賑やかに並び、早朝から多くの人々でいっぱいです。これまで長い間行く機会がありませんでしたが、今回久しぶりに出かけてみました。

暑い中多くの人々が詰めかけていました。いいものを探すには朝7時頃に行かないと無くなってしまうと聞いていますが、そんなに早く行くことはできませでした。出かけたのはやっと10時過ぎになってしまいました。

2010/09/01 10:09:16

アメリカぐるぐる1ヶ月旅行#11~Los Angeles...

8/27 (日)

朝ご飯を食べてから Amtrak の駅へ。サンディエゴ~ロサンゼルスは2時間45分。
昔、縁あってしばらく泊まっていたSheraton Grande Hotelまでタクシーを飛ばしてチェックイン。$135+12%税。州税は6.5%。

夜は1.5エーカー (1,836坪!!) の庭を持つPasadina の友人宅でBBQ。たんまりマルガリータを楽しむ。夜のVentura Highway をジャガーに乗って Los Angeles Downtown へ。真夏の夜の夢? いや、現実。

8/28 (月)

朝ごはんの前にホテル近くの YMCAでエアロビクス。なまっている身体に渇を入れる。

9:20 にハリウッドの ユニバーサル・スタジオに行くツアーに出発。映画見ていない人間だな、私って。

お昼まで食べてからホテルに戻り、東京の会社に勤めていた中国系の女の子と夕食。

8/29 (火)

YMCAでエアロビクスをして、朝ごはんをして、ロサンゼルス近郊の友人に電話。

LAXまで Airport Shuttle ($10) で行き、12:25 発 US#2798 にて Las Vegas へ。

2010/09/01 01:09:24

☆★ぐるっと富士山麓1周ウォーク JUL...

作成中
富士山麓一周ウォーク
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鳴沢氷穴~河口湖

この13キロ 約4時間
四季折々の豊かな自然を感じながら文化や美を意識しながら山麓約140キロを1年かけて無理なく日帰り計12回で完歩します。憧れの「富士山」を身近に感じながら、一生涯の自慢話をつくりませんか!どのコースからスタートしても1年12回で一周します

2009-7-11 \5900
最少催行人員/各30人
【町田出発】
▼集合場所 市民センター前
▼集合時間 午前7時00分
【たまブラーザ出発】
▼集合場所 
▼集合時間 午前7時50分
2052
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2010/08/31 02:08:11

2004秋、中国旅行記5(5):10月31日(1)上海・銀都...

<2004年10月31日(日)>

 昨晩は遅い時間までマージャンやビリヤードを楽しみ、旅行談義や趣味の談義で夜更かしをした人もいました。でも、皆さん概ね快適な目覚めだったようです。遅い人は3時過ぎの就寝だったようです。私も2時過ぎだった記憶です。

<早朝の構内散歩>
 前日にお聞きしていましたので、早朝の散歩を楽しみました。ヒロ君だけは少し体調が優れないとの事で、そのまま体力回復に努めました。構外までの散歩はセキュリティガードがありますので、今朝は邸内にとどめました。これも前日に決めておいたことです。
 構内でも随分広く、また変化がある散策を楽しむことができました。写真資料でも紹介しておきましたので、詳細はそちらに譲ります。
 日本の住宅開発と違って、いくつかの点で感心させられました。個々の住宅が十分な広さを持っていることは第一ですが、住宅地全体のセキュリティの面では格違いでした。出入口での人と車のチェックはもちろん、少し不審な人物がいると、警備の方が自転車でそれとなくチェックにやってきました。構内のポイントに監視カメラも設置されていました。最初、私たちはその「不審な住民」として観察されたようですが、日が経つにつれ、警備の方とは顔見知りになりました。
 出入口の警備員詰め所には、夜でも3名ほどの人が常駐し、昼間はさらに増えていました。その時々の警備の方は、すべて氏名と顔写真が掲示してありました。

<朝食、曇ったレンズ>
 朝食はすぐ近くのスーパーマーケット内にある専門店の出店でした。点心、麺類などの各種を、Enちゃんが注文してくれました。味では、本店以上のものがあるとの評価でした。事実、運ばれてきた料理はあっという間に完食でした。この時も、黒酢を付けました。どうやら、病み付きになってしまったようです。
 この食事時にも何枚か写真を撮りましたが、食べる方に忙しく、レンズが曇ってしまったのをうっかりしました。湯気が着いてしまったようです。2台のカメラのうち、1台は、このあとの上海動物園の写真が使い物になりませんでした。動物園の入口付近、花壇の花、パンダの写真などです。しかし、遅ればせながらレンズの曇りに気が付いて、拭き取りました。それで、この後撮った大切な写真は大丈夫でした。

<上海動物園>
 上海動物園は、パンダ見学が主な目的でした。昨年の旅行では臥龍のパンダ繁殖センターの見学をしましたが、そのことが念頭にあったようです。中国旅行記の4冊目にその写真を入れておきました。1歳くらいのパンダを膝に乗せた写真を撮ることができました。このときのパンダは無理やり起こされて、少し機嫌が悪そうでしたが、好物のりんごを与えられて、やや機嫌を直していました。
 しかし、残念ながら、この上海動物園でのパンダ見学は当て外れでした。見学できたのは1頭だけでしたし、かなり薄汚れていました。ひっくり返って笹を食べていましたが、「可愛い仕草より横着な仕草」の印象が強かったようです。1頭だけなので、ふて腐れていたのかも知れません。もう1頭は貸し出し中だったのかも知れません。
 そのパンダに同情の余地もありました。もともと、「可愛い」「横着」の判断も、人間が勝手にしているだけですから。しかし、この仕草は私だけの印象ではなく、皆さんも同じ意見だったようです。

<点心の昼食>
 皆さんの食欲が爆発したのはこの時が一番だったようです。パンダ舎は動物園の一番奥でしたから、随分と歩いておなかが空いていたためかも知れません。
 次々と出された点心は、どれも美味しかったものの、ものすごい勢いで片付きました。ガイドクックにも載っている、確かに美味しい店でした。そのお店の名前は「蘇浙匯(スージョイフォイ)」でした。「ヨーロピアンムード漂うレストラン、上海に4店舗」などとも紹介されていました。
 この日は点心料理でしたが、一番の名物は「蘇浙樟茶鴨」の料理のようです。江南地方の楠(クス)で燻製にした鴨料理で、パリッとした皮が香ばしくて美味しいようです。樟の文字は虫除けの「樟脳」などに使われていますが、楠と同じ木のことです。1羽68元(900円弱、高級ですね!半身の40元もあるようです)この料理は、次回の楽しみです。

<ガーデンホテル>
 上海動物園、蘇浙匯のお店は、ガーデンホテルに駐車をしての行動でした。運転手のチョウさんは、私達を降ろした後、車で家に戻られていたのかもしれません。迎えに来てくれる時間と場所は、Enちゃんがその都度指示されているようでしたし、電話でも連絡されていました。そのお骨折りで、この旅行期間中、スムーズな行動画ができました。
 このガーデンホテルは、OgさんとEnちゃんの記念の場所でもありました。その式の模様は、1年半ほど前のご自宅での花見の会の時にビデオを見せていただきました。ガイドブックによれば、「1926年、フランス租界のこの地にクラブハウスとして誕生し、1940年にはアメリカの所有、1949年に中国に返還された後は、文化クラブとして、庭はサッカー場として利用された」とありました。更に「1958年からは毛沢東主席の上海での滞在場所として使用された」とされる由緒あるホテルです。
 現在の33階建てのビルは、1990年にオークラガーデンホテルとして出発して、今日に至ったものです。旧フランスクラブの格式をそのままに、近代ホテルに生まれ変わったことから、「オールド上海と近代上海の融合」とも形容されています。外国文化が排斥された「文化大革命」時にも守り通された彫刻があるそうです。

<チャイナドレスの注文>
 Myちゃんのお友達の結婚式が11月4日にあるそうです。その時に着るチャイナドレスの注文の店をEnちゃんが案内してくれました。
 専門店が軒を並べる一角でしたが、お店に大勢で押しかけてはご迷惑になりますので、車で待つことになりました。その間を利用して近所の写真を何枚か撮りました。場所は、長楽路だったようです。
 注文されたチャイナドレスの生地は赤色だとお聞きしました。仕上がりはMyちゃんが帰国した後の6日になるとのことでした。7日までの滞在なので、問題ありませんでした。Enちゃんのお世話で随分お値打ちになったようですが、そのお値段は差し障りがあるといけませんので、伏せておきます。しっかりした生地だったようです。
 実は、この本文を纏めている最中に、その仕上がったチャイナドレスを着たMyちゃんの写真を撮る幸運に恵まれました。あとがきに写真を添えておきました。バッグ、靴の色もドレスにぴったりでした。

<自由市場での買い物>
 自由市場の正式名称は「襄陽服飾礼品市場」です。「服飾」はそのままファッション、「礼品」はプレゼントの意味です。「市場」は「シーチャン」と読むようです。日本読みでは「シジョー」、ハングルでは「シジャン」ですから、ハングル読みのほうが中国語を正確に音訳しているようです。
 今回はすぐ、よく理解しないまま後ろから付いて歩いてこの市場にやってきましたので、位置関係がぴんと来ませんでした。ガイドブックでは、地下鉄1号線の陜西南路駅から歩いて5分と紹介してありました。少し難しい「陜」の文字は、「狭い」と同じ意味を持つようです。改めて地図で確認しましたら、花園飯店の最寄り駅も陜西南路駅でした。この花園飯店の西南に位置していました。
 この時は特に買いたい物もありませんでしたが、靴下と、ゴルフ帽だけを買い求めました。ゴルフ帽が25元、靴下2足が15元くらいでしたから、日本円では締めて500円くらいの買い物でした。まだ旅行の前半なので、極力必需品だけに限りました。
 この市場には、杭州の旅行を終えて、もう一度やってきました。その時には、つい、「礼品」のまとめ買いをして仕舞いました。

<恒隆広場(ホンロン・グワアンチャン)>
 「恒隆広場(ホンロン・グワアンチャン)」と1階のロビーに記されたビルの中にあるレストランが、Enちゃんが調整されたS.P.先生と奥様のYa先生との待合せ場所でした。英語名は「プラザ66」です。「66」は66階建を意味しています。
 食事の時間までは時間がありましたので、しばらくこのビルで自由行動になりました。南京西路の中でも注目度の高い人気スポットのビルと紹介されていました。1階から6階までがショッピングモールです。1階にはシャネル、エルメス、ルイ・ビトン、カルティエなどのブランドの有名店が約30軒、ずらりと並んでいました。私の場合、この方面には疎く、「猫に小判」の状態で、残念なことでした。何か頼まれ物でもあれば、目的の品を記したメモを片手に一生懸命探すのですが、その必要もありませんでした。
 しかし、同じ1階にはジャガーの新車などが展示されており、OgさんやAuちゃん達は、真剣にその車に見入られていました。Hi君も車マニアのようです。その横では弦楽トリオの生演奏があり、私はしばらそのメロディに耳を傾けていました。重たいクラシックではなく、軽い音楽が主体でした。
 そんなことで、食事までの待ち時間を、各人有意義に過ごすことができました。時間帯によっては、1階のオープンカフェーでティータイムを過ごすのも魅力があります。

<S.P.先生、Ya先生との夕食>
 予約の時間には少し早い時間でしたが、「メニューを選ぶのに、最低30分はかかります」とのEnンちゃんの説明に従って、早めに5階のレストランに向かいました。そのお店の名前は「鷺鷺酒店(ルールージュージャー)」でした。看板には英語で「ルールー・レストラン」と併記がありました。ガイドブックには「地元で大人気のお店」と紹介されていました。
 Enちゃんとの阿吽(アウン)の呼吸で、S.P.先生達も早めにルールー・レストランにお見えになりました。早速、メニューを片手に今日のディナーの料理の選択です。Enちゃんが予告されたとおり、十分に時間をかけて、前菜から始まってメインディッシュ、デザートへと進みました。その間、ボーイさんに内容を詳しく確認されながらのメニュー選びでした。早めにお店に出向いて、十分な時間を使って料理を選択するのが、中国の大切な食事マナーのようでした。
 私自身も一人で海外旅行をする時に、アジア系の食事がしたい場合、「日本料理店」を避けて「中国料理の店」や「中華街」を探すのが習慣になっています。「日本料理」は「高くてまずい」の代名詞、「中華料理」は「安くて美味しい」が通り相場になっているからです。
 S.P.先生のメニュー選びを拝見しながら、「料理を作る人」だけでなく、「料理を食べる人」が「一体になって、中国料理が世界を席巻したのでは?」との思いが過りました。
 この夜、昨晩に引き続いて美味しい中国料理を堪能できました。とこぶしを蒸したものや、から揚げの鳩料理もありました。その詳しい様子は写真編をご覧ください。全員揃っての記念写真も添えておきました。

<外灘(ワイタン)の夜景>
 S.P.先生、Ya先生と恒隆広場の前でお別れした後、外灘(ワイタン)まで向かいました。元租界の夜景、黄浦江の対岸の東方明珠塔の夜景を見るためです。
 恒隆広場の地下鉄最寄駅は2号線の石門一路駅です。人民広場より1つ西の駅になります。もちろん、今回の旅行では専用のマイクロバスが用意されていますから、地下鉄利用の必要はありませんが、次回以降の旅行のために確認したものです。2号線の外灘の地下鉄最寄駅は河南中路駅であり、更に東へ向かって歩く必要があります。
 外灘まで車で送ってもらった後、夜景を存分に楽しむことができました。黄浦江の西岸に位置する元租界地のクラシックな建物のライトアップは見事でした。その背景には超高層ビルの屋上の飾りネオンも遠望できました。この夜、見学者で一帯は大変な混みようでした。
 東岸には黄浦江を挟んで、上海東方明珠塔の夜景も満喫できました。多分、天気の良い日の夜は、この一帯が上海で一番の観光地となっているのでしょう。

<上海建国賓館、地下鉄1号線>
 夜景見学を終わった後、上海建国ホテルまで車で送ってもらいました。日本での旅行計画の段階で、Enちゃんにお願いしておいたホテルです。地下鉄1号線の徐家匯駅の直近の一流のホテルでした。Enちゃんの連絡で、従弟のPnPnさんが1週間分を予約しておいてくれました。
 Enちゃんに手伝ってもらってチェックインをしましたが、2晩だけに変更して、前払いしました。2日に第二陣と合流した後、杭州へ向かい、その後はまた新宅に泊めてもらうための変更でした。
 この夜、皆さんとお別れした後、すぐに地下鉄1号線の様子を確認に出かけました。夜の9時40分頃です。ホテル近くの出入口はすでに締め切ってあり、少し東に向かったあと、地下に潜りました。
 出来ることなら今晩も乗車してみたかったのですが、終電車を考えると、ぎりぎりの時間でしたから、明日早く出かけることとして、今日は諦めることにしました。路線図、始発・終発時刻などを確認し、写真に納めて地下鉄駅を後にしました。


 外灘の光の渦は租界なる過去を捨て去り今に輝く

 明珠塔河を隔てて闇照す伸ゆく上海誇るが如し

2010/08/29 10:08:49

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